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聖き夜との考えとわたしなる秘密ー①

  この日にも、こころの深い力より、かの人びとを思いたい。いましも外にあり、ことのさなかに立つ者、時の大きな課題に魂と命をさらす者、

 

              汝らの精神よ、夜を衛りてあれば

              その翼よ、はこべ

              我らが願いを、我らが愛を

              汝らの護りがおよぶ地の人びとに。

              汝らの力と結び

              我らが顧いの援けて照らせ

              我らが愛し、我らが求むる魂を

 

そして、重い課題のとき、我らが時代の大きな要請のゆえ、すでに死の関をゆきし者、かれらにこのことばを、

 

              汝らの精神よ、夜を衛りてあれば

              その翼よ、はこべ

              我らが願いを、我らが愛を

              汝らの護りがおよぶ天の人びとに。

              汝らの力と結び

              我らが願いの援けて照らせ

              我らか愛し、我らが求むる魂を

 

そして、我らが精神の営為もて求むる精神、地の立ち直りを指し、人の自由と進歩を指してゴルゴタの奇蹟をへてゆきし精神、我らがいまにして思いをいたそう精神の、汝らとともに、汝らの重い務めとともにあれ。

 

 ここにこのことば、なりてなる地の歩みの深い秘密よりひびきつつ、

 

              在りの高みに、こうごうしきのしるし

              地の人びとに 平和

              地の人びとによき力のかよいてあれば

 

この年、聖き夜の訪れをまじかに、このことばに結ぶ思いの、ことばの深い意味に結ぶ思いのどれほどでしょう。ことばの深い意味にいかに多くの人びとが思いをはせ、平和なることばの響きとなり、声となることでしょう。いまわたしたちの地にこうまで平和の失せたこのとき、聖き夜のこのことばに結ぶ思いのいかがでしょう。

 

 世にひびくこのまことのことばに和して、わたしたちのいまこの時代、いやましに深く、ひとつの考えがこころをうたないでしょうか。じつにひとつの考えです。民と民とがたがいに敵となり、おびただしい血が流され、あまたの命が奪われる、はてもなく痛みがこころにみち、憎悪、敵意が精神をきしる、かの愛から隔たることのみあらわに、聖き夜の祝いが生まれをことほぐ、かの者の告げんとした愛から遠いことのみ目にするこのとき、ひとつの考えがきわだたないでしょうか。たがいに敵となり、たがいに殺しあおうとも、死の関をゆく人がこうごうしい光の導き手キリスト・イエスヘの思いとともにあらんことを。戦争と苦痛と不和との広がるこの地をこえて、こころの深みにかれとの絆をたもち、たがいに和せることを。かれキリスト・イエスはほかならぬ聖き夜にこの世へと来たりました。聖き夜の節、なべての敵意をこえ、なべての不和をしのぎ、なべての憎悪をつらぬき、人という人の魂にキリスト・イエスヘの思いがいだかれることを。かれへの思いが流血と憎悪のただなかに湧きいづることを。かくかれとひとつであるとの考え、地の人びとを分かつことごとくに高くまさり、こころとこころを繋いだかれとひとつであるとの考え。じつにひとつにして、はてしなく大きく、はてしなく深い考えです、世に人と人とが隔たりあおうとも、その人と人とを結ぶキリスト・イエスなる考えとは。

 

 それならばいまのわたしたちの時代にこそ、この考えをなおさらに深くとらえましょう。人のなりてなりゆく歩みにつれ、やがては大きく強くなりくることごとに、この考えのいかに切っても切れなくかかわっているかも、深みからおして知られます。人の歩みになりてなる人のこころ、人の魂は、いずれ血を流さずして多くを克ちとれるまでになります。

 

 ここにかれこそはわたしたちを育まんことを、かれこそはわたしたちを力づけ、教え、地を歩ましめて、真実に、ことばのまことの意味で、分け隔てのかなたに聖き夜の聖きことばを感じとらせることを、とこう、キリスト・イエスとの絆をまことに思いつつ、聖き夜、とわに新たにたたえずにはいられません。

 

 キリスト教の歩みをふりかえれば、伝承は伝承ながら、むしろ後の代にきて多くとりざたされた伝承があります。ところによってはそれが恒例の行事ともなり、数百年におよんでとりおこなわれもしました。もちろん聖き夜の秘密を講じることは、そのむかしから方々におよんで、教会を中心になされてきました。その講じるは、そもそも創世記、聖書の始まりから起こすのがむしろ普通で、毎年のこの節になると、まずは宇宙のおく深くからことばがどよめき、ことばから創るがおこり、だんだんと世がなりきたり、つづけてルーツィファーが人にせまり、人の生きるが初めに定まるところから、地において生きるとなり変わり、このアダムとエヴァの誘惑のひとくさりから、さらに旧約の描く人の歩みへと、一連のことが講じられていきます。古くは講じるだけでしたが、やがて時代がくだると、いささかなりに肉づけされ、劇にしたてられ、いよいよ十五世紀、十六、十七、十八世紀、ヨーロッパの中部にみつかる劇のかたちにも発展しました。さきほどわたしたちはそのほんの一端をみたわけです。

 

 聖き夜の聖き祝いの節、旧約の初めとゴルゴタの奇蹟と、ふたつの聖きことをとりあわせたものはひとつかぎりなく大きな考えがひかえています。そのとりあわせからいまに残るのは、僅かなばかりになりました。わたしたちの暦が聖き夜の祝いの日のまえにアダムとエヴァの日をおくのは、いわば唯一の名残であり、同じ考えから来ています。しかしそのむかしは、聖き夜の秘密とゴルゴタの秘密とを、考えのより深くから、思いのより深くから、知るのより深くからとらえるにつき、その場の教師によってくりかえしひとつの大きな考えが明かされてきました。含むところ大きな象徴による考えにして、すなわち十字架の由来の考えです。旧約の説くところ、神がアダムとエヴァなる人に命じていわく、楽園の実のいずれを食すとも、善と悪の認識の木の実は食すべからず。その実を食したがために、人は在るのもとの場から追われる。

 

 さて、その木が伝わり、みなもとの代にいたりーこの経緯は伝承によりさまざまですーその代からキリスト・イエスの肉の身が生まれる。たとえばこれもある時代の伝承で、アダム、罪におちた人が、地に埋められ、埋められた墓、楽園からへだたる墓に、ふたたび木が生えると、こうあります。ここに、さて、とくと考えてみられたい。アダム、原罪をへた人、ルーツィーファーに惑わされた人が、墓にいこい、地とひとつになる。その墓に木が生える。アダムの身とひとつになった地に木が育つ、その木が伝わりアブラハムの代、ダビテの代にいたる。かつて楽園に生え、ふたたびアダムの墓に生える木、その木が十字架の材となり、十字架にキリスト・イエスがかかると、こうです。

 

 かつての教師は、ゴルゴタの奇蹟の秘密を深くからとらえようとする者にむけて、この考えをくりかえし明かしました。いにしえの世にこうした物語として、絵姿として深い考えが説かれてきたことには、それなり深い意味があります。その意味はいまなお善きことに変わりありません。

 

 ゴルゴタの奇蹟なる考えとして、わたしたちはさらにこのことも見てきました。イエスなる身に生きたキリストは、かれならではのものを地のオーラにもたらし、以来それが地と結ばれてある。この地はゴルゴタの奇蹟をへてなり変わり、地のオーラにキリストの天よりもたらしたものが生きると、こうです。この考えとかの木の姿とをともに精神の眼にとらえて、なお高くから事の柄がひらかれます。人はルーツィファーの印をおびて地の歩みを始めました。すなわち人はルーツィファーの力と結ばれて地のものとなり、地のかたわれをなします。死んで地に帰す人の身は、解剖学が説くだけのものに尽きていません。人の身は内面の外面にして、内なる人の外なるなりです。精神の科学に明らかとなるとおり、人とは死の関をヘて精神の域を辿るのみならず、人とはまたすること為すことのことごとくで地と結ばれてあります。その結びつきは地質学、鉱物学、動物学その他の説く事象が地に結ばれた地の事象であるのと、いささかも変わりはありません。死の関をこえてより人と地の結びつきがひとたび終わるとは、人のわたしにとってのことに過ぎません。人の身のなりは地にゆだねられ、地のなりとなります。この身のなりは、ルーツィファーによって変わった地の印をおびています。地で人が為すことごとはルーツィファーの印をおび、人はそれを地のオーラにもたらします。人の行いから生まれさかえるのは、人をもってもともと意図されたもののみではありません。ルーツィファーに染まるものも、人の行いから生まれます。ほかならぬ地のオーラに生まれます。ここにアダム、ルーツィファーに誘われた人、かれの墓、墓に生える木、ルーツィファーで変わった木、善と悪の認識の木と、このとおりの姿において、人がもともと立つところを去り、ルーツィファーの誘いでなり変わり、みずからの身をもって為し、地のなりてなる歩みに、もとから定まるのと別のものをもたらしきたった、そのことの始終が眼にすえられます。

 

 いうところの木は、地に結ばれた物理のなりから生えでます。人の地のなり、ルーツィファーの誘いをへずしてはならなかった地の人の低いところ、人の地において生きるのことごとから、ルーツィファーの誘惑、ルーツィファーの試練で人の歩みにもたらされたものが生えでます。ものごとを知ろうとするわたしたちは、初めに定まるのと違った知るをしてきました。そのゆえに、わたしたちの地の行いから生まれるものが神神の意にそわない姿をなします。わたしたちが地に生きるの生きるは、かつて神神の意にそうべく定められた生きるではありません。わたしたちの生きるは、地に異なるものをもたらします。この異なるものをそれと知るには、それなりの絵の姿によらねばなりません。すなわち、わたしは地のなりてなる歩みにかかわる。わたしの行いが地にもたらすものより実が結ぶ。この実は認識の実にして、善と悪を知るわたしの行いより結ぶ。このとおり認識は地の歩みにそれと生きてある。この認識の姿は、しかしもともとあるべき姿にあらず、地の歩みの指すところに照らし、変えるべく変えねばならない。わたしの地の行いに生じるもの、ここにこの木は地に生きるの十字架となさむ。これまでの生きるが育みしゆえに、これよりは新たなかかわりをとらむ。この木はルーツィファーに染まる地の歩みより育つ十字架の木、この木、アダムの墓より、誘惑ののちの人より育ちてあり。すなわち、認識の木は十字架となる木です。この木のいまある姿をそれとみてとればこそ、地の歩みの指すところにむけ、この木との新たなかかわりの必須であるのが知られます。

 

 このことと、わたしたちの言いならわす人の身の4つのなりとは、どうつながるでしょう。こう問うて、さて精神の科学に説くいとも意味深い秘密のひとつにふれます。さしあたりもっとも上のなりとしてのわたし、このわたしを人たるわたしたちは幼いみぎりのとある時から、わたしと云うようになります。つまり、わたしにそれなりの関わりをするようになります。とある時のその時とは、のちのちみずからの記憶がさかのぼれる境のあたりです。精神科学の方法でさまざまに見てきたとおり、その時までのわたしはそれそのものが身をつくる働きをになってきます。すなわちわたしに意識してかかわるようになるまえにも、わたしはそれとして在ります。ただ、まずは身をつくる働きをにない、精神の域にあって力を生み、受胎、誕生とへてなおもしばらく身にはたらき、数年におよんで身をつくりなします。それでこそ人たるわたしたちは、みずからの身をみずからの身と使いこなし、みずからをわたしと意識してとらえるようになります。こうしていわば人の身にわたしが入り来たります。他ならぬこのことに、ひとつ深い秘密がひそんでいます。いまいくつですかときいて、生まれたときからの年をいくつと答える、このことでわたしたちは精神科学の説く秘密のひとつにふれています。いよいよこれからの時代は、この秘密もなおさらに明かされていくでしょう。この秘密について今ふれるだけでもふれましょう。伝えるだけでも伝えましょう。生涯のとある時点を何歳という、その何歳は物理のなりのこと、物理のなりが生まれてへてきた歳月のほかではありません。わたしは物理のなりのなるをともにしていません。わたしはそのままにとどまります。

 

 わたしは記憶でさかのぼれる時点にとどまる、身とともには変わらない、たしかにそれととらえるの難しい、まさしく秘密です。しかし、みずからの来し方をかえりみて、その都度のことごとがよみがえってくる、このことにおいてわたしたちは絶えずわたしにむきあっています。わたしは地の歩みをともにしません、人たるわたしたちはやがて死の関をすぎ、いうところのカマロカの道を歩み、生まれたときまでとってかえして、わたしとふたたび出会い、わたしをもってさらに先へと歩んでいきます。肉の身は年とともに移ろう、わたしはそのままにとどまる、時が過ぎる、過ぎるうちにとどまるものがあるとは、なかなか思いがたくして、そのぶんそれととらえるのも易しくはありません。しかし事実は事実です。わたしはとどまります、わたしは地から来るものと結ばれぬゆえ、精神の力と結ばれるゆえとどまります。もっとも、この力も人の力のうちというならばいえます。わたしはとどまる、わたしのなりは、いうところのフォルムのガイストから授かるなりのままです。わたしは精神の域にたもたれる、かりにそうでないとすると、地のなりてなる歩みにおいて、人は地のもともと指すところに至るべくもありません。人が地に立ち、人のアダムたるところをもって辿ることごと、人がアダムとして死に、墓にもたらすその印とは、物理のなり、エーテルのなり、アストラールのなりにまとわる印です。人が地を歩むあいだ、わたしはうちにその都度のもろもろをいだきつつ待ちつづけ、さらに先の人の歩みをめざします。人がやがて死の関をへて、道をとってかえしながら辿るのは、その、うちにいだいたその都度のもろもろです。この意味において、人たるわたしたちは、わたしをもって精神の域にとどまります。このことが人という人に意識されていくでしょう。そして、そもそもこのことが意識されだすにいたったのは、かのしかるべきとき、精神の域よりキリストの降りきたり、知ってのとおりイエスなる身をもってーふたとおりでしたーかれキリストにかなう地の身をそなえたことによります。

 

 このことをしかるべく知るなら、みずからの生涯をとおして、おさな子のおさな子たるところに絶やさず眼がそそがれます。そもそも幼いみぎりに、わたしたちの人にして精神たるところはとどまればこそです。事の柄をそれとみてとれば、その事の柄へいつなりとも眼がむけられるものです。そのように人という人が育ちつつ、それにまなざしをむけていきます。「おさな子たちをわれに来させよ」と、高みからかの精神が呼びかけるさきは、地に結ばれた人にあらず、まことおさな子です。そしておさな子に眼をむけよかし、そのように育てよかしと、聖き夜の祝いは、ありとある人のためにもうけられました。かのゴルゴタの奇蹟は、キリストのナザレのイエスなる身で生きた最後の三年をもって、なべての人にもたらされましたが、くわえて聖き夜の祝いがもうけられたことの意味は、そこに求められます。このお祝いは、キリストが幼いみぎり人の身をいかにそなえたかを、それと見てとるべき祝いです。聖き夜の思いの深くに秘められるは、また秘められるべきは、このことの知恵です。すなわち人とは育ちゆくともとどまるもの、天の高みにとどまるものによりて、いまし来るものとひとつなり。おさな子の姿において、人よ、思いおこせよかし、人にしてこうごうしきところを。地におりつつ隔たりしも、ふたたびたどり着いたところを。みずからのうちなるおさな子たるところを。おさな子たるところをふたたびもたらせし者を。以来ことはすんなり来たわけではありませんが、この大いなる子どものお祝い、聖き夜の祝いが、ヨーロッパ中部の方々で受けいれられ、育まれてきたことに眼をむけると、そこに脈々とことをおしすすめてきた力がうかがえます。(つづく)

訳:鈴木一博