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経済学への前奏曲〜価格

 価格

 

 たとえば、店の商品にまったく値札がついていないとしましょう。店のなかには店の主人が売りに出しているものしかありません。また、お金も存在しないとします。客は欲しいものと交換するために売るものを持っています。値札がなくて、交換するものしかないのです。これはまさしく物々交換の状況ですが、何も過去の経済形態に戻れなどというつもりはありません。別のことを説明したいのです。値札もお金もない状況で双方が何を何とどれくらい交換すべきか決めるには、二重の評価が必要です。まず双方が、自分の欲しいものは自分にとってどれくらいの価値があるかを見積もります(飢えている人にとっては椅子よりもパンの方が値打ちがあります)。次に、自分が交換しようとしているものの価値を見積もらなければなりません(飢えている人は食べ物のために簡単に椅子を手放すでしょう)。このような両方向の評価ができるまでは取引ができないのです。ここで初めて双方の利害が一致するような価格が成立するわけです。もちろん、普段マッチを一箱買ったり、列車の運賃を払ったりするたびにいちいちこんな意識の離れ業を演じることはありません。が、思考の中で取引の過程を追ってみればこうなります。そのような過程は暗黙のうちに起こっているだけなのです。直観的に行われていることを思考において再現するのが経済学者の勤めです。

 

 どんな取引でも、当事者はお互い相手から、今現在のみならず将来における必要性をも考慮するよう求められます。これから買おうとするものの評価に重要なのは今現在の必要性です。一方、代わりに差し出すものを評価するには、将来のことを考えねばなりません。双方にとって欠かせないものの交換、たとえばパンと牛乳、について考えてみれば明らかですが、次の交換に充てる自分の生産物が再び用意できるまでに必要なだけ、相手の生産物をもらわなくてはなりません。でないと、飢えまたは渇きで、これからの欲求を満たすために必要な生産が行えなくなるからです。これが非現実的な例であるということは問題ではありません。本質的には非現実的ではないのです。事実、もし上のようなことがなければ、永遠に増え続ける価値をより少数の人が貯め込む、ということになるでしょう。上の例が非現実的というのは、物質的、感覚的に見て、パンと交換するための牛乳が生産できず、パンがもらえずに飢え死にするということは(ありえないとまではいわないまでも)現実的でない、という意味においてのみです。しかし、経済的、すなわち超感覚的にみれば、これはまったく現実的なことです。さらに、上記の例は交換の本質を示すものです。交換において受け取るものの価値は今現在の必要性(消費)によって量られ、差し出すものの価値は次回の交換に今回と同様のものを用意する(生産、ただし過去ではなく将来の)のに何が必要か、によって決定されます。

 

 取引の双方が同じ評価方法をとることから、経済行為の発端は、生産または消費いずれか一方の側だけからは捉えられず、その両方から同時にみる必要があります。思考の中で必要に応じて生産と消費を区分する場合、経済の本質部分からは離れてしまっているのです。その場合に大切なのは、「もともとの」状況を見失わないことです。それは決してなくなったり変わったりするものではないからです。人間の思考はその意識とともに変化しますが、経済の本質は変わらないものです。そこからあらゆる経済学は生じてくるのです。

(訳:佐藤由美子)

 

著者:クリストファー・ホートン・バッド

長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています。