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経済学への前奏曲〜人間の能力としての資本・自然−人間−精神

人間の能力としての資本

 

 経済のいたるところに生産と消費はしみわたっています。生産された物はすべて消費されなければなりません ―人参にせよ資本にせよ。人参は食べられるか、放置されて腐ったとき、消費されたことになります。すなわち、自然に帰るとき、消費されるのです。これは、物質的なものの全てに当てはまります― それらは自然から生まれ、自然へと帰るのです。実際それらは自然に属しているのです。人間はそれらを何かの形にし、自分の仕事を刻印し、使用します。しかし、その刻印は一時的なものです。自然は自分に属する物は必ず呼び戻します。物質的なものの場合はかなり明らかに分かることですが、人間はそれらを自由に成形し使用することができますが、決して所有することはできません。それらは常に自然のものなのです。

 

 資本も、生産や消費と同じプロセスをたどります。既に、資本は交換のプロセスを通じて増加していく、と述べましたが、これはどのようにして起こるのでしょうか?簡単に答えましょう。あらゆる取引で見られることですが、ある物が自分にとって別の物よりも役に立つという場合、それは、例えば飢えている人にとって人参が椅子よりも大事であるというような理由だけでなく、受け取った物が今後の生産を可能にするから、ということもあるのです。交換において人は常に次回の交換ができるのに十分な価値を受け取る必要があります。ところで、物を生産するのは、生産のためではありません*。人が生産する物は、その人の能力に結びついています。人参は、農業の才能のある人によって、また、椅子は木工職人によって作られます。生産は人間の天賦の才能と実際の能力の表現なのです。資本は物体が消費の地点に近づいていくことによって生じますが、それはこの能力が生産の中で使われ、自己実現していくことでもたらされるものなのです。したがって、資本が使用されねばならない限りにおいて「属する」のは、能力の活用(消費)にではなく、その発達と育成(生産)になのです。事実、原型的な経済状況の中では、生産は人間能力の現れとしてのみ行われるのです。換言すれば、これらの能力がもともと潜在している、という事実の中に資本は存在するのです。人が思い付きや予感だけを資本としてビジネスの世界に入っていく、という例は数多くあります。

 

 資本は人の能力、精神(自然に対する意味で)に「属し」ます。さて、資本は必ず人間によって用いられねばならないにもかかわらず、いかなる意味でも人間には属しません。物質的な物が常に自然に属するように、資本は精神に帰属するものです。このことは、次のことを認識すれば把握できます。自然においては、物は塵へと分解していくことによって自然に帰ってゆきますが、資本は、精神が自然界の塵を拾い上げ形作ることを可能にすることによって、精神へと帰っていくのです。原型的にはこれらの間に違いはありません。さらに、資本と物質、精神と自然は協力関係にあります。それらは、一つの経済プロセスから分離することができないのです。人は、自然から何かを作り出すとき、必ず資本を用いなければならず、同時に必ず資本を生み出してもいます。このプロセスは自給自足的なものです。したがって、資本の所有ということをもっとも簡単に理解するには、資本が文化生活 ―芸術や教育といった人間能力の開発に関わる生の局面― に属する、とみなすのがよいでしょう。ではなぜ、資本がこのようないわば非生産部門に属するのでしょうか?

 

 価値は文化生活のなかでは生み出されません。資本を新しい能力に変容させることによって価値を費消することが、文化生活の経済的な課題なのです。これらの新しい能力は今度は経済の領域で用いられ、新しい価値を創造します。

 

*現代の経済生活において全く逆の状況があることは私も承知しています!

 

 自然−人間精神

 

 経済プロセスを理解するには、人間が、本来的に二つの世界、すなわち自然界と精神界とに属しているということを認識しなければなりません。経済にはしたがって二つの課題があります。人間の物質生活に必要なもの(財)を自然から取り出すことと、個々人の発達に必要な能力(資本)を精神から取り出してくることです。この二つの考えが念頭にあれば、人間労働が経済の範疇にあると論じることは不可能です。なぜなら、そうではないからです。もちろん、人は自分の技能を伸ばすために働かなくてはなりません。木を扱う仕事をしたことのない人は決して木工職人にはなれません。人が働かねばならないのは言うまでもないことです。しかし、労働は最重要なのではありません。最も重要なのは、一人一人が能力を開花し、発達させていくことなのです。このために経済的に必要となるのが資本です。資本は能力を表現する手段であり、それと取り組むべきものです。人が働くのを阻止することはできませんが、その人が資本を手に入れるのを妨害することはできます。労働力は経済の一部ではありません。労働力を経済の一範疇として扱うと、資本と個人との真の関係をみる視点が曇ることになります。労働力を買うのではなく、個人を資本化する方がよりよいでしょう。経済プロセスを理解するのに「労働力」という言葉を使う必要はありません。実際、使わないようにしなければなりません。

 

 現代の経済学では、土地、労働力、資本について論じています。これは誤解を招くものです。労働力は経済の範疇ではないからです。経済の範疇となるのは、能力と需要をもち発達していく個人である、人自身なのです。さらに「土地」は本来「自然」を意味することになっているので、土地・労働力・資本という表現は、自然・人間・精神に置き換えるべきです。(ここで「精神」の語を用いるのは、既にみたようにこの領域に資本が属するからです)。土地・労働力・資本という表現を用いることで、現代経済学はピントをはずしています。現代経済学では自然界のみに焦点を合わせていますが、経済学の課題は精神界にも関わっているのです。自然−人間精神というとき、私たちの念頭には、「原初の」経済的な時が留まっています。この表現を用いることによって、理論経済学の基本的な思考形態を見失うことなく応用経済学に分け入ることができるのです。

 

 自然−人間精神という考えをいだきつつ、より個別的な経済問題に向かってみましょう。例えば、価値はどのようにして作り出されるのでしょうか?方法は二つだけです。一つは自然の形を変えることを通じて(例:木をテーブルに)。もう一つは仕事の形をを変える、生産手段を改良することによってです(例:道具の精度を上げる)。フォードモーター社は車を生産するだけではありません。フォード社の経営方針は「絶えざる改善の積み重ね」です。前者の価値創出プロセスは自然を人間が直接物理的に形作ることです(車の生産)。後者は間接的で超感覚的です(デザインの改良)。第一のプロセスによって作られた価値は経済循環の中で「商品」となります。第二のプロセスで作られた価値は「資本」となります。経済プロセス全体の中でこれら二つのことが起こるのです。しかしながら、資本は経済的には交換のプロセスを通じて増えていくのですが、個々の経済的な事例において、どれが資本的価値でどれが商品的価値かを見分けるのは不可能です。それらがどこに属しているか正確に知る手段は人間にはないのです。感覚的知覚を基に、資本・商品のいずれも全ての人に属しているのだ、ということしかできません。これが、資本と商品の所有についての経済学の結論です。これは、根本的に公平なものです。真の経済学は人類の社会的努力と矛盾するようなものには決してならないのです。

 

(訳:佐藤由美子)

 

著者:クリストファー・ホートン・バッド

 

長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています