経済学への前奏曲〜経済学への新しいアプローチ
はじめに
今日私たち全てにとって経済学はただあるというだけでなく、ほとんど不可欠といっていいほど理解を必要とするものとなっています。人はあらゆる瞬間、経済活動に関わっています。ともすれば、経済学は疎遠なもので専門家の領分だ、あるいは金持ちや権力者のものだ、と思われがちですが、実際はとても身近なものなのです。私たちの行為は全て経済的効果をもたらし、本質的に経済と関わっています。刻一刻、私たしたちは生産し消費しています。個々人による無数の終わりない行為が集まって、経済の世界をつくりあげているともいえるのです。
しかし、経済の世界は外的に体験されます。世界の経済問題について読んだり聞いたり論じたりするとき、私たちはそれがあたかもどこか未知のところからやってきたことであるかのようにとらえるのです。たとえば、銀行の影響力は知っていてもその力が私たちの無意識なお金の使い方に由来しているのには気付きません。お金を「預ける」とき私たちはそのお金がそのまま銀行にとどまって引き出されるのを待っているのだと思います。もちろん現実にはそのお金はすぐさま銀行によって運用されます 一その使途を好むと好まざるとにかかわらず、それに対し私たちに発言権はありません。また、私たちはインフレについてそれがほかの星から来た力であるかのように語りますが、このいわゆる「庶民の敵」を創り出したのは私たち自身の行為なのだということを見抜けずにいます。つまるところ、今日土地を買う機会が与えられれば、そうしない人は少ないでしょう一 が、「土地を買う」ということは経済的にはなりたたないことなので、結果として価値の偽りの上昇が起こるのです。
経済学者たちは自分たちの学問を科学だと考えたがります。ところがその根拠は大方の場合弱いものです 一ボウドラー*的削除を受けた20世紀の科学という意味なら別ですが。経済学は何にもまして人間の描写、人間の鏡像であって、人間に対する論評なのです。それは人間を説明するつの方法なのだ、という認識なしでは科学たりえません。人間との特別な関係を理解しなければ、経済学は人間的な結論を導き出すことも、真の知識を得ることもできないでしょう。無秩序で抽象的な、需要と供給という考え方にしがみついている限り、科学的だなどという主張は大間違いです。山勘のほうがまだ真実味があります。
無論、経済学は神秘的な生の領域であって、やる気のある人だけしか近寄れない、と考えてしまえば便利だし気は楽です。また、必要なときや緊急時に頼れる人がいれば私たちも助かります。原因も解決策も外側に求める、というのは私たちの不幸な性癖です。不幸な、というのは、原因も解決策もどちらも私たちの内にあるからです。経済学は私たちの外にある諸力から成り立っている外の世界のことだ、と信じているわけにはいかないのです。そのような考えにふけって、私たちは現代における中心的な課題と目的、すなわち経済的に目覚める、ということを放棄しているのです。経済学が私たちの外にある、という感じ方は、私たちがこの時代の課題に取り組むことはさておき、その課題を認識することすらできない、ということの呪うべき証なのです。
世界経済は制御不可能な状態です。政策も国際的立案も新しい理論も、暴走した馬たちの手綱を締めることができません。私たちの誤った思考は、すべての行為を通じて私たち自身が現在の状況を生み出したのだ、ということに気付かず、むなしく馬たちを探しています。砂糖を一袋買うとき、私たちはその背後にある過程 一農薬の過剰な使用や第三世界の不当な開発など一 をすべて生み出します。私たちの日常の行為が、学者の研究対象となる経済の実態を構成しているのです。私たちがこの生きている経済を無視し続けるなら、どんな優秀な経済学者にも解決できないような状況をつくりだすことになるでしょう。世界のどこにおいても、経済的に無知のままでいれば、今の経済の後退を解決することはできません。換言すれば、経済学の何たるかを知らぬことほど不経済なことはない、ということになります。
では経済学とは何でしょうか?これはおいそれと答えられる問題ではありません。まず、一通り見渡してみましょう。手始めに、売り買いのとき何が起きているかを考えてみます。物がいくらかの値段で売買されます。経済学では交換される物より価格を問題にします。生産物は自然の部ですが、価格はそうではありません。それは人間の発明です。鳥や獣は価格について考えたりはしません。彼らのいわば経済、すなわち物質的存在にとって必要な手段は完全に自然の中に含まれています。経済学は人間独自のものです。人間が作った、目には見えぬ、自然界にはないものなのです。
経済学において目に見えるものはありません。価格、価値、資本 一このようなカテゴリーのうち感覚で捉えられるものはありません。したがって経済学の内容はイマジネーションを通じて把握しなければなりません。経済学を物理学と同列視するのは概ねまちがっています。統計、モデル、「法則」といった、いわゆる科学的経済学が扱うがらくたは、実際の出来事においてはほとんど役に立ちません。なぜなら、それらは今まであったことの記述であって、これからについては語っていないからです。経済学においては起こってしまったことはそれほど重視されません。学者が問題にするのは未来なのです。そのために必要なのは、未来への見通しと直観であって、死んだ統計ではないのです。
※(訳注)ボウドラ一:シェイクスピアを勝手に削除編集した本を出版した編集者。
(訳:佐藤由美子)
著者:クリストファー・ホートン・バッド
長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています。