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経済学の前奏曲〜商品の購入/資本の贈与・資本の社会的役割

商品の購入/資本の贈与

 

 まさに経済的な本性から、財は消費され自然に帰ることを、また資本は個人の発達のために使用されて精神に帰ることを望んでいます。ですから、財は売られるべきなのです。というのは、その時点で財は経済循環の外に出るからです。その時点で技術上、財は「消費財*」になるのです。概して、経済プロセスのこの局面は社会の中で的確に現れています ―たとえそれが人参が腐り、鉄がさびるという性向が明白に目にみえて真実である、ということでしかないとしても。極端に不足している場合を除いて、財は蓄積されていれば価値を増加させません。ですから、財に対する私たちの行為は多かれ少なかれ健全です。私たちは財を作り出し、交換し、消費します。財は社会の中でその経済的本性に適った道筋をたどるのです。

 

 社会生活の中で資本がたどる道は、経済循環の中で財がたどる道の鏡像です。資本は(絶えざる改良という指針を通じて)精神によって作り出され、(個々人の発達を通じて)精神によって消費されます。財を消費財に変換することを経済用語では購買といいます。資本が、精神によって作り出されたもの力によって消費されるものへと移ってゆくことを贈与といいます。これは過去と完全に決別し、未来へと捧げられているので贈与なのです。将来資本をいかに使用すベきかということについて、過去は何も語りません。資本は、能力を開花させるという内在的目的以外のいかなる意図にも従うことはできません。この能力が何であるか、また、それがどの方向に用いられるべきかは経済的には量れません。贈与において、人はいわば、次の走者がベストを尽くしてくれることを信じてバトンを受け渡すのです。

 

 しかし、社会で資本が従わされている道筋に、上のようなことはほとんどみられません。私たちは資本を売り買いし、積み上げ、保管し、所有して、相続させ、他人を支配するために用います。つまり、その本性に適うやり方以外のことならなんでもするのです。現代の社会的闘争全体の背後に、私たちが資本に間違った意味付けをしているという事実が横たわっているのです。資本が社会の中でその経済的本性を反映した道筋をとることができるようにならなければ、世界中に流れ出している緊張を、未来の人間性の源泉に変えていくことはできないでしょう。既に述べたように、財は多かれ少なかれ経済的に正しい社会の道筋を辿っています。資本はそうではありません。資本を誤用することによって、私たちは不十分な経済的思考で社会を誤らせるのです。

 

*財は真の消費に用いられると消費財となります。他の財の生産に用いられれば「生産手段」となります。

 

 資本の社会的役割

 

 資本はお金の集まりではありません。例えば、人が事業を始めるため資本を必要とするとき、彼にとって必要なのは金よりもその金で買うもの ―工場、機械、在庫など― です。言い換えると、彼はいかに抽象的でかけ離れてみえようとも、何等かの形で自然を用いなければならないのです。彼はこの自然の部分を変容するように働きかけ、何かを、生産だけのためではなく、彼自身の表現として創造するのです。資本がなければ、自己表現も個人の発達も不可能です。その意味で資本は絵筆や、機械の様なものだといえるでしょう。それは、商店にとっての在庫や、鉱山の採掘権でもありえます。自然を資本に変えるのは、それが人間の内で精神を広げるのに用いられる、という事実です。厳密にいえば、資本は一つの作用であり、意図であり、時間の中の一つの瞬間なのです。それは決してかたちをもった、目にみえるものではありません。それは、人間の中の精神が自然を掴み取ることによって存在するのです。このプロセスは全て目にみえない形で、人間の思惑や努力無しに生じるのです。事実、このようなかたちでしかありえません。あらゆる経済事象から資本が生み出されます。

 

 とても神秘的で知恵に満ちているとおもうのですが、人間は自己の物質的欲求を満たしながら、彼の精神的発達のための経済的基盤をも作り出しています。何と自己充足的なことか!現代風表面的幻想の自己充足ではなく、永遠に自己を再生産していく真の自己充足性です。生産があるところには資本があります。さもなくば、現代社会で人口の16%が全人類の生活を支えるのに必要な財を生産する、ということがどうして可能になりましょうか?資本は生産を通じて、しかも大量に作り出されます。上記の統計で、一人の人間がたっぷり6人分の財を生産していることになります。この比率は精神的発達が生産に流れ込むにつれて大きくなります。絶えざる改善の方針が実現されればされるほど、多くの資本が作り出されます。狭い意味で資本は不足しているとか限られているというのは全くの幻想です。もしそう見えるとすれば、こう問わなければなりません:資本はどこに行ってしまったのか、と。経済的には、上で述べたとおりに存在します。社会的には消えてしまつている、もっと正確には姿を変えているのです。

 

 個々人の発達に対しての資本の関係は歴史的にみてかなり明らかです。歴史上、資本がそれとわかるかたちで現れてきたのと時を同じくして、個人の意識も現れてきました。

 

 人間の発達のある時点で、自我がもはや外からの価値に形成され導かれている社会の鋳型の中では生きていけない、という事態が起こります。自我は、自分自身の方法と価値を見つけ出さなければなりません。そのためには、鋳型から自己を解放し、外側から鋳型に迫っていく必要があります。無言のうちに進行していた事柄が、今や概念化され抽象化されねばならないのです。です。資本は名前の中に生じます。常に存在してきた要素は聖別されます。それは人間の自我によってのみ、そして自我が無意識の存在から自己を解放するときにのみ命名されるのです。このようにして、資本はその名を知るのです。「資本」という言葉は語彙上のコンセンサスの結果ではありません。それは精神的事実なのです。解放された自我は、資本を通じてのみ社会の鋳型の中に入ることができることを知ります。

 

 ここで、私たちは陥らないように気をつけなければいけない罠は、「資本家」について、あたかも特定の何人かの人々だけが資本の用途を知り、利用することができるかのように論じるということです。こういった考えは、劇的に変化した経済状況の中に古い社会秩序が存続していることによって出てきます。それは根本的に誤りです。資本は人間の精神に属し、引き付けられていくものであって、その人の社会的地位や出生、権力基盤に結びつくものではありません。精神はあらゆる人の中で働いています。このことがどの程度意識されているかに応じて、それぞれの人は資本の必要性を認識します。未来の社会はこれを目の当たりにするでしょう。その時、全ての個人が資本を与えられるでしょう。決して、少数だけがそうできて、残りの人は売り買いされるということではないのです。資本は、つねに人間の中の新しいもの、人間の精神の個性を追求するという大きな可能性を約束しているのです。

 

 資本は、階級や政治的社会的な境界を区別しません。資本が唯一区別するのは経済的意識の高さです。資本は全ての人に、経済的に目覚めること ―すなわち、自分が社会に対していかに貢献すべきかを自覚し、それが自分以外の人類にとってどのような価値を持つかを量ること― を求めます。不思議なことですが、資本を必要としている人だけが必要な金額と期間を知っています。他の人は自分たちに必要な額と期間、言い換えれば自分たちには必要でない金額と期間、つまり、他人に用立てることができる金額と期間がわかるだけです。つきつめれば、資本の分与という考え方も不適当です。資本は引き出されることしかできないのです。資本の本性に従えば、人は、資本が全て流れ込むような資金、どれくらい欲しいかではなく、どれくらいが自分に見合っているかということを基準に誰もが引き出せるような資金を要求するようになります。自分がいくら欲しいか、というのは、いまだ利己的な考え方です。しかし、自分にどれくらいが見合っているのかを考えるには、経済的意識、つまり、その資本の使用によってどんな経済的価値が生じるのかを見通す能力が要求されます。人の意識はこのようにして経済プロセス全体の中に導かれ、自分一人の活動の枠を超えて成長していきます。このことによって深遠な結果がもらされます。どれだけの資本が自分に値するのかを知ることは事実上、資本の社会的責任を認識することになります。人間が経済学の中で真の社会行動の源を獲得しようとするならば、個々人の自己評価に基づいて資本を用意することになるでしょう。

 

 資本とそれが属する経済プロセスは、決して社会の進歩に相反するものではありません。反対にそれは、個人の解放と暗黙のうちにある社会的責任とを均衡させるのです。この潜在的可能性を判断の基準にすると、現代社会の未熟さからくる悲劇を感じ取ることができます。もし今の社会で資本がその経済的本性にしたがって使用されれば、社会的傾斜を生み出さざるをえないでしょう。資本が反社会的だというのは現代の欺瞞の一つです。資本は社会的にはどこに行くべきなのでしょうか?それは人間の能力に引き付けられる、と言うのでは一般的すぎます。実生活では人間の能力は様々な現れかたをしますが、資本の明らかな行き先には、学校、大学、病院、劇場など、すべて財ではなく能力を生産する社会の局面が含まれます。経済的には、自然の領域において価値は消費財として互いに交換されます。精神の領域でも価値は交換されますが、贈与としてです。財が交換されると、剰余価値が授けられたように生じます。同様に、精神に投じられた資本の量より精神が生み出した新しい能力の量の方が常に上回っています。このプロセスは物理的にはあり得ませんが、精神的現実なのです。コップが精神的に空になっていくほど、それはより満たされるのです。経済プロセスはこの目にみえない法則の現れなのです。これが ―少数の資本家への「特別な」賜物ではなくて― 人間の進歩を可能にするのです。近い過去において、多額の資本を自由にできたのは少数の人々でしたが、それは彼らの能力に負うというよりは、経済プロセスの計り知れぬ叡智によるところが大なのです。資本の問題をここまで考えてみると、資本が持つ社会的目的が神的叡智によって強められていることを感じはじめるでしょう。人は自分の「特別な」賜物よりも、全体の仕組みと神が近くあることの不思議に気づきます。

 

 その意味で資本は精神的世界の道の上で静かに人を導いてくれます。ですから、この最も「非精神的な」現象が、物質的、無神論的、自己中心的社会の核心に、そのような社会が終には求めはじめる治療をもたらすのです ―それは精神性の認識、神性に対する感覚、そして利他主義です。

 

 資本それ自体に咎めるべき点はありません。しかし、それは何とよく人間の魂を反映していることでしょう!資本に対していとも簡単にその本性にそぐわない意味付けをしてしまったために、私たちは個々に意識を持った人間としての社会的責任を放棄するすばらしい言い訳を「資本の力」のなかに得ているのです。本来、人間がその時代の社会的課題を認識しなければ、資本に正しい意味付けをすることは決してできないのです。あらゆる経済学者や社会学者の圧倒的関心事は次のような問いでなければなりません:資本に対する正しい関係は築かれているか?そうでない程度に応じて、人々は自分たちの外にあって操ることができない社会的な力について論じることでしょう。

 

 ここでまた、経済学そのものに立ち帰りましょう。今までの回り道は、資本に光を当てるのみならず、いかに経済学が社会全体と切り離して考えられないものかを示すのに必要でした。経済学は、それが社会秩序の中に溶け込むまで、いわば照射するものなのです。経済学はある意味で、人間と精神世界と自然との間の特定の関係なのだ、といえます。経済学の説明をすればするほど、人はこれら三つの領域の中に深く入り込んでゆくのです。

(訳:佐藤由美子)

 

著者:クリストファー・ホートン・バッド

 

長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています