このかた、わたしたちはかつての奇蹟のことをたびたびとりあげて、それが人に力をめざめさせ、感官による知覚をこえた事柄へと眼をひらかしめるものだと論じてきました。そしてゴルゴタの奇蹟こそは、感官による知覚をこえた秘密をありとある人にひらくべく、歴史の場にうちすえたのだと論じました。まこともまことのキリストの考えは、わたしたちが子どもとしていだく力を、生涯のそのつどそのつど真実に、比喩としてではなくまことに蘇らせてこそ、みずからのものとなります。世事にあたりつつも、その場その場で子どもの立つところに立ちかえり、その立つところを生き生きと感じとる、生まれてより死ぬまでの視野で人にまなざしをそそぐ、そうしてみずからのものとなります。
この木曜日にわたしは公開の講演として、ヨーハン・ゴットリープ・フィヒテのことを話しました。その場でもうひとことあってもよかったのですが、しっくりこないという人もでてこようかと、これは言いませんでした。フィヒテなる独自に敬虔な人の生き方、その生き方のいちいちが何故かは、このことから明らかになります。彼は老年にいたるまで、まさしくおさな子たるところを、ほかの人にもまして保っていました。彼のような人には、なおさらながら子どもが生きています。いわば子どものままでいます。幼いみぎりに生きて働く力が、かなり保たれています。これは大いなる人の多くがひめる秘密です。晩年の晩年まで子どもでいることができる、死ぬときも子どもで死ぬ、いや歳はとりますから、あるところが子どもでありつづけます。
わたしたちのうちに生きる子ども、聖き夜の奇蹟はそこに語りかけます。キリストをいれるべく選ばれた神のおさな子イエスの姿は、そこに語りかけます。わたしたちがまなざしをそそぐおさな子は、すでにキリストのもとにいます。この地の立ち直りを指し、ゴルゴタの奇蹟を経ていったキリストのもとにいるおさな子です。
このことをとにかく意識しましょう。わたしたちの身のなりにして、物理のなりが地に帰すとは、物理のことにして、かつ精神のことです。この精神のことがあらまほしく運ぶのは、地のオーラにキリストの働きがおよんでよりです。この地にキリストが結ばれてあるのを見ずして、この地の姿をそれと見たことにはなりません。なにもかも唯物論でかたをつけようとするかぎり、感官による知覚をこえる事柄ともども、キリストのもとをも素通りするばかりです。素通りするかぎり、この地の真実の意味はとらえられません。つまりは精神の眼をひらく力をわたしたちがうちに呼びさますことに、すべてがかかっています。
聖き夜の祝いを、ことにわたしたちこそは本来の姿につくりましょう。このお祝いは過去に捧げられるばかりではありません。だんだんになべての人に精神の生命の誕生をもたらす、未来のお祝いでもあります。やがて人という人に精神の生命が生まれるべく生まれる、すなわち人間の未来にひとつにして大いなる聖き夜が力をおくる、この未来への思いを、預言者の思いを、こころにいだきましょう。精神の生命は考えのうちにもこの地の意味をひらきます。この地にそれとそなわる意味、ゴルゴタの奇蹟をへて地のオーラにキリストのはたらきが結ばれてより、この地にそれとしてそなわる意味をひらきます。聖き夜、すなわち闇のきわまる深みから、光がそそぎます。精神の生命の光が、人の歩みにそそぎます。古き光は消えました。ゴルゴタの奇蹟のさき、薄れきたって消えました。ゴルゴタの奇蹟ののち、光はよみがえります。意識によって、人の魂のうちによみがえります。ゴルゴタの奇蹟を経てキリストの地になるなりと、人の魂とは関わってあります。
このとおり精神の科学の意味において、聖き夜のことを、だんだんに多くの人がそれととらえるようになります。聖き夜はやがて人びとのこころに力を生み、人びとの魂はみずからの意味をたもちます。平和のうちにも、痛みのうちにも、時代の大きな悲惨ゆえに痛みにつらぬかれるときにもたもちます。
精神の眼は、この地の意味をひらきます。それをこんな美しいことばであらわした者があります。
なにゆえぞ、わが眼にこの力あるは
毀れたるの溶け去り
闇の夜の照り輝き
乱れたるの整い、朽ちたるの蘇るは
なにものぞ、時と所のくさぐさを縫い
わが歩みを真、善、美の
喜びの、とわの泉につれきては
浸し、わが行いのことごとくを洗うは
そは、しかりウラニアの眼に
深く澄み、青く、静けく、清き光の燃ゆるを
われみずから黙しみいればなり
さればよ、わが眼、深きに憩う
われにあり、とわにひとつのもの
わが生きるに生き、わが見るに見る
もうひとつ
在るはいずれ神のみ、神は生きて在り
なれは知るか、われのなれとあるを知るを
そも知るの、いかで在らむ
神の生きるを知るにあらずば
「あぁ、神の命、われを捧げんものを
そはいずこにかあらむ
知らむとすれば、影とかわり
知るに紛れ、知るに覆わるるを」
なれを遮るその覆いとは、審らかに
なれのわれぞ、死すべきの死せ
されば神のみぞ、なれの行いに生きる
みよ、行いにして朽ちざるところを
されば覆いの覆いとあらわれ
はれやかに神の生きるのきわだたむ
このように、精神をみよ、地の意味をとらえよと唱える者が、そういつもいつも受けいられるとは限りません。受けいれないのは、また物質主義者だけとも限りません。ことあれば神よ、神よ、神よ、主よ、主よ、主よを口にする者も、精神の道をひこうとする者をふさわしく迎えるすべを知りません。いったい在るはいずれ神のみ、すべてが神、いたるところに神の在りをいってのける者に、なんとしたら応えられるでしょうか。その者はすべてに神を求めて、こう唱えます。
みよ、行いにして朽ちざるところを
されば覆いの覆いとあらわれ
はれやかに神の生きるのきわだたむ
ありとあるものごとにこうごうしい命をみようとした彼は、世のかたき呼ばわりされました。同時代の人びとから無神論者とののしられ、大学を追われました。彼とは誰あろう、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテその人です。このフィヒテの生涯にもたしかにうかがえるでしょう。ゴルゴダの奇蹟に、しかしてまた聖き夜の秘密に脈うちひびく力が、地に生きる人の魂に生きるなら、その人の生きるはひとつの道とひらけます。その道に、人のわたしの地のわたしと結ばれてあることの意識がめざめます。ここに地のわたしとは、キリストにほかなりません。そして人たるわたしたちがキリストにより育むもの、それがだんだんに大きく育ち、この地は初めに定まる歩みをめざします。
わたしたちはことに精神認識の精神から、今日またこうして述べた意味において、聖き夜の考えを胸の力と脈うたせ、ことをになう力となしましょう。聖き夜の考えに眼をそそぎつつ、いまの事態をもって地の歩みの無意味をあげつらうかわりに、苦しみ、痛みのうちにも、争い、憎しみのうちにも、人の歩みをたすけ、まことの歩みをになうものごとを見てとりましょう。
事態の原因を究めるにもまして、ただでさえ党派の争いで隠されるその原因を究めるにもまして、人と人との立ち直りにつながる働きのいかにを探しましょう。
いまは血の流されるこの地に、やがてはなにがしの芽がふきます。その芽を未来にむけて、なべての人の立ち直りにむけて育てる国と民とがあるなら、それこそ幸いです。その育てるは、しかしまた人びとが精神への道をみいだしてこそです。時節のお祝いとしての聖き夜とともに、常なる聖き夜のあること、いつなりともこうごうしきものの地の人に生まれること、それをこころにとどめてです。
この考えの聖きところを、ことにこの日々には、こころにかよわせ、魂にたもちましょう。季節のめぐりにおいても、この時節は光が育つのシンボルです。地の闇のきわまれるとき、地が闇の深みに息づくとき、地のうちなる魂は光りに生き、地の魂の目覚めはきわまります。
聖き夜には、そうして精神の目覚めの日々がつづきます。この時節は、地の歩みを指したキリストの精神の目覚めを偲ぶよすがともなります。聖き夜の聖き祝いは、そのゆえにこの時節にもうけられました。
このとおり天と地と人との意味において、聖き夜の考えを魂に結びましょう。そしてここから力をくみ、事態のよく進展し、時代のよく発展することを願いつつ、ことごとに眼をそそぎましょう。
ここに聖き夜の祝いより受けとる力をもって、いまひとたび、かの衛りにつく精神にこころをむけられたい。時の大きな課題のゆえ、外にて重き務めをになう者。
汝らの精神よ、夜を衛りてあれば
その翼よ、はこべ
我らが願いを、我らが愛を
汝らの護りがおよぶ地の人びとに。
汝らの力と結び
我らが顧いの援けて照らせ
我らが愛し、我らが求むる魂を
そして、重い課題のとき、我らが時代の大きな要請のゆえ、すでに死の関をゆきし者、かれらにこのことばを、
汝らの精神よ、夜を衛りてあれば
その翼よ、はこべ
我らが願いを、我らが愛を
汝らの護りがおよぶ天の人びとに。
汝らの力と結び
我らが願いの援けて照らせ
我らか愛し、我らが求むる魂を
そして、ゴルゴタの奇蹟をへてゆきし精神、地の立ち直りとさらなる歩みを指して来たりし精神、この聖き夜の奇蹟にも人びとのいやましに知りゆこう精神の、汝らとともに、汝らの重い務めとともにあれ。
註
始まりの祈りのことばルードルフ・シュタイナーは戦時下、当事各国での講演に毎回欠かさずこれを唱えている。
(5頁)
「ヨーロッパ中部にみる劇」
《Weihnachtspieleaus altem Volkstum Die Oberferer Spiele》, Sonderdruck aus Bibl.-Nr.43, Dornach 1976 /《Ansprachenzu den Weihnachtspielen aus altem Volkstum》,Bibl.-Nr.274, Gesamtausgabe Dornach 1974.
(5頁以下)
「十字架の由来」をめぐる伝承について
Rudolf Steiner《Bilderokkulter Siegel und Sa ulen. Der Munchner Kongress Pfingsten 1907 und seine Auswirkungen》, Bibl.-Nr.284 / 285, Gesamtausgabe Dornach 1977,
S.185ff ; Sonderhinweis zur《GoldenenLegende》undzu den beiden Saulen.
(11頁)
「知ってのとおりイエスなる身をもって」
Rudolf Steiner《Diegeistige Fuhrung des Menschen und der Menschhei t》, Bibl.-Nr.15, Gesamtausgabe Dornach 1974.
(11頁)
「おさな子たちをわれに来させよ」
マタイ19,14/ マルコ10,14/ ルカ18,16
(13頁)
シュレ一アーKarl Julius Schroer, 1825-1890、ドイツ文学者、シュタイナーの師であり友《MeinLebensgang》, Bibl.-Nr.28.Gesamtausgabe Dornach 1962/《Briefe》Band I, Bibl.-Nr.38, Dornach 1955 /《Vom Menschenr a tsel》, Bibl.-Nr.20, GesamtausgabeDornach 1957 /《Methodische Grundlagen der Anthroposophie》,Bibl.-Nr.30, Gesamtausgabe Dornach 1961.
(14頁)
ヴァインホルトKarl Weinhold, 1823 -1901、ドイツ文学者《Weihnachtsspieleund Volkslieder aus Siiddeutschland und Schlesien》,1853
(17頁)
「ヘーリアント」Heliand福音賛歌で古ザクセン方言の頭韻詩、830年頃の成立RudolfSteiner《DerBaldur-Mythos und das Karfreitags-Mysterium》,2 . V ortrag, Dornach 1968; in《G・e1s tesw1ssenschaf t als W el tpfingstgabe》, Bibl.-Nr.161, Gesamtausgbe
(18頁)
ヘッケルErnst Haeckel, 1834 -1919. 《Ewigkeit,Welt- kriegsgedanken uber Leben und Tod, Religion und En twickl ungslehre》,Berlin 1915.
(23頁)
フィヒテJohann Gottlieb Fichte : 《FichtesGeist mitten unter uns》,Berlin, 16. Dezember 1915, in《Ausdem mitteleuropaischen Geistesleben》,Bibl.-Nr.65, Gesamtausgabe Dornach 1962, Sonderdruck Dornach 1962.
(25頁)
「こんな美しいことばで」
Fichtes Werke, herausgegben von I.H. Fichte, Berlm 1845-46, 8. Band, Seite 461ff.; 2 Sonette
訳:鈴木一博