経済学への前奏曲経済学への新しいアプローチ(最終回)クリストフア
利益―生産手段―産業資本
伝統的な会計においては損益計算書と貸借対照表があります。簡単に言うと、前者は事業で作り出された価値を記録し、後者は資産と負債の関係を記録するものです。ある企業が10,000借り、数年後に15,000の事業収益を得ました。そのうちまず10,000はもともとの資本に代わって当初の負債を無くし、残りの5,000は負債のない資産、つまり純資産となります。ここでは企業によって価値が作られ(事業収益)また資本が生じる(純資産)プロセスをみることができます。事業収益とは事業そのものによって作り出された価値です。純資産は事業を超えて作り出された価値です。
資本を企業に属する資産として扱う誤った慣習はさておき、実際には何が資本に起きているのでしょうか?貸借対照表の上ではそれはどこかに保管されているかのようにみえます。現実にはそうではありません。それは二つの全く異なる用途に用いられているのです。在庫や生産設備の増加による事業の拡大*、そして、文化生活への資金の投入です。後者の場合、それは贈与となり、経済プロセスの外部に出てゆきます。資本が交換のための財(訳注:たとえば商店の商品在庫など)の購入に充てられた場合、それは「産業資本」となります。生産設備の購入に充てられた場合、つまり新たな財の生産に使うための財を購入した場合は生産手段となります。文化生活、例えば教育などに投じられた場合、それは贈与となり、経済プロセスの外に出るのです。言い換えれば、純資産の行き先は文化生活もしくは経済生活、つまり精神か自然かしかないのです。経済プロセスの内的な把握のためには、資本の二つの用途(生産手段と産業資本)、そして「利益」という概念は必ずしも必要ではありません。それらの意義は、ここまでに述べてきたことに内在していることを改めて明らかに示すというところにあります。それらは経済学の表面的理解のための術語にはなるでしょう。しかし、これらの術語に価値を与えるには、それらの自然―人間―精神との関係を明らかに見通す必要があります。
*これは会社が利益を自己に再投入する(自己資金による拡大)か、またはその純資産を別の会社に融資することによってなされます。別の会社が関与しても、経済的意味は同じです。
貨幣―通貨―合意
貨幣とは何でしょうか?社会の中での貨幣の役割は何でしょう?これまで、経済プロセスの説明を貨幣抜きで行なってきました。そうできたのは、貨幣が経済プロセスに属していないからです。経済プロセスは不可視的に起こっています。人参は目に見えますが、価値は見えません。そして、経済的に意味があるのは価値の方です。人参は物理的意味しか持ちません。経済プロセスに実体を与えるために、可視性と不可視性を併せ持つ物が必要となるのです。それが貨幣です。硬貨、紙幣、小切手などを考えてみましょう。これらは、金属や紙という物理的実体を持っています。小切手は紙幣の代わりになります。紙幣は硬貨に代わります。硬貨は金属です。
貨幣の価値は何に由来しているのでしょう?元来(それほど昔の話ではないのですが)それは貴金属の重量によっていました。それらは金、銀、銅といった金属である限りにおいて、その他の自然の加工品と相互的な関係にあります。貨幣の起源は経済プロセスにおいて財と呼ばれるものにあります。では、財がどうして貨幣に変わったのでしょうか?さきほと、実生活では生産と消費が正確に一致することはなく、交換の互恵的な要索が必要となる、ということを見ました(②参照)が、交換それ自体においても常に不均衡が生じています。そのため次のような財と価値が
常に存在します。すなわち、交換においては「余剰」であって、生産から消費へ移るという意味での交換に用いられるのではなく、交換を先送りするために用いられるような財と価値が。市場に出かける人は、自分の持つ価値をそっくり全部自分の必要なものに費やすこともできますし、その価値の一部を今自分の必要なものと、また別の一部を今は必要でないものと交換することもできます。今必要としない価値を彼は後に、つまり何かが必要となったときに使うことができます。それまでの間この価値は「通貨」すなわち特定の価値内容を持たない液状の価値となります。現代の用語でいう「流動的」になるわけです。この通貨の出現もまた、人間のわざではありません。それはひとえに、自己表現してゆく生命、決して空にならないコップです。この神的叡智に対し、権利を主張してはなりません。
人間が行なうことは、その過程を認識し、この通貨がどのように姿を現すべきかについて合意する、ということです。合意によって、世界のあちこちの様々な経済発展段階にあるところで、通貨は牛や貝、ピーズ、金、コイン、小切手、信用売買といった形をります。貨幣について大事なのはそれが表すのが人々の合意、通貨を実際の価値の代理物にするという、どちらかといえば意識的な合意である、ということです。こうして、私は自分の人参を今日パンと交換することもできるし、その人参をお金に換え、そのお金を後日パンを買うのに使うこともできるわけです。ただしこれが可能になるのはひとえに、通貨が普遍的な価値を与えられているからです。だからこそ、明日のパンの代わりに通貨を受けとって後日それをパンと交換しようとするとき、パン屋が人参としか交換できないといって貨幣を受け取らない、ということが起こらないのです。
貨幣が通貨(流動的価値)である限りにおいて、それは経済プロセスから発生し、経済プロセスに属します。が、貨幣に関して最も重要なことは、人々がその目的について意識的に合意している、ということです。その際、経済の外の事柄が導入されます。貨幣を表すギリシャ語は、慣習、合意、約束事を意味します。合意に達するとき、人々は経済プロセスではなく、「法の」プロセスに関わっているのです。貨幣は法の分野に属し、法的生活を経済学に浸透させるのです。それは何のためにでしょうか?
貨幣それ自体は、硬貨であれ、手形であれ、小切手であれ、これからの用途をそれ自体で決定することができません。貨幣は自らを生み出した経済プロセスから完全に解放されているのです。貨幣の用途はその使用者に委ねられています。過去は貨幣の用途に影響を及ぼしてはならないのです。貨幣は本来的に未来に属するものです。これからその貨幣がいかに使われるかを知る唯一の方法はその現在の用途を観察することです。更に、その用途は使用者の意図を明らかにし、また、使用者その人をも明らかにします。つまりそれは人を、精神を明らかにするのです。
こうして経済プロセスは精神を受け入れる器としての通貨を産み出します。このために貨幣それ自体は問題ではありません。それは経済学に実体をもたせるほどに地上化します。それはポケットの中の重たいコインにさえなり得ます。しかし同時にまたそれは地上を離れもするのです――たとえば小切手帳のように。それは無私的な利己性(編注:②「交換」の項の後半を参照)のもう一つの表れです。それは交換と知覚に属しています。事実それは交換の手段です。それは交換を精神的プロセスにし、交換する者の間に合意と信頼という真の人間的要素を持ち込むのです。
が、ここで不可欠なのは他者を知ることとその人の精神を認識することです。盲目的にお金を貸す人はいません。借り手がやろうとすることの経済的価値を予測し、借り手の能力を評価して、それに応じて資金を提供します。ちょうど血液が人間の自我を体に導入するように、法としての貨幣は精神を経済の中に導入するのです。
購入―貸付―贈与
経済的に可能な貨幣の使途は三つだけです。使うか、貸すか、贈与するかです。「貯金」は経済的には意味をもちません。お金を貯めることは、経済的には貸すことなのです。例えば、100を銀行に預けたとすれば、それは銀行に貸したことになるのです。「貯金」は「供給」同様、余計な概念なのです。思考を混乱させるだけです。
経済学において、購入―融資―贈与はかなり限定された意味を持ちます。購入は、経済的には貨幣が財と交換されたときに生じます。財は商品となり、貨幣が費消されます。購入にあたってもし貨幣の仲立ちがなかったら、財どうしが交換されることになるでしょう。本に対して3を払う代わりに、3の価値を持つ人参を持ち出すわけです。購入のための貨幣は、財と財との交換、つまり等価交換を反映しています。同じように、贈与貨幣は例えば人参を誰かにあげて、代わりに何も受け取らないときに生じます。不等価交換です。融資貨幣は真の貨幣、貨幣の本質部分です。購入の貨幣は、自然の領域、商品の、また等価交換の領域内に留まっている、という特徴を持ちます。贈与貨幣は自然を去って精神に向かいます。贈与が行われると、その結果精神が地球に入り込むことができます。その例を子どもの教育にみることができます。教育のために子どもにお金を払わせようなどと考える人がいるでしょうか?それは子どもに与えられるものなのです。上の二領域の間に、等価交換以上の価値が生じるが贈与は行われない、という領域が存在します。これを非等価交換と呼ぶことにします。この価値は貨幣が融資の領域にいわば滞在したまま使用されることによって(利子のかたちで)生じます。それはタンスのなかにしまっておかれないで、利用されます。私は融資貨幣を貨幣の中の貨幣、と呼んでいます。なぜなら、それは通貨の発達史の中で先に説明したプロセスの力によって発生したからです。
完全な等価交換となるような純粋な購入は実際には存在しません。それは常に非等価交換の要素、すなわち、新しい財を生み出すのに使うことはできるがその財を商品に変えることはできないような貨幣を生じます。経済プロセスは永遠に精神を求め続けます。自然から離れて行こうとするのです。この不変の傾向から資本、通貨、不等価交換が生じます。貨幣は常に不等価交換へ、贈与へと向かう傾向があります。純粋な購入があり得ないのと同様に、純粋な融資もあり得ません。交換の場合、交換そのものが価値を作りだすので、購入はどうしても融資へと移行します。財を作るための貨幣の使用である融資もまた、価値を作り出します。この価値によって、融資は贈与へと移行していきます。貨幣には常に贈与へと上昇しようという傾向があるのです。さて、純粋な購入や純粋な融資が考えられないのに対し、贈与においては価値が作り出されない、より正確には、作り出された価値が測定できない、という意味において、純粋な贈与について論じることができます。貨幣は自然から生じ(購入)、人間によって使用され(融資)、精神の中に消えてゆくのです(贈与)。贈与貨幣は次にそれを受け取った人の手で購入の貨幣となり、このサイクルは自己完結するのです。
貨幣は経済プロセスの反映です。貨幣が経済プロセスを変化させることは絶対にないのですから、なぜ貨幣が存在するのかを問うてみることができるでしょう。貨幣の目的は、人間を自然から解放することです。最初に説明した経済プロセスは、人間がいわばその中にただ放り込まれているようなものでした。貨幣とその三つの用途を通して、人は意識的にいつでも経済プロセスの中に入ってゆくことができます。これによって、経済プロセスが正しく顕現できるような地上の社会を作ってゆく可能性が人間に与えられるのです。
賃金
ここまで経済プロセスについての全般的な説明をしてきました(貨幣は精神に向かう;資本は能力に引き寄せられる)が、これら全般的な基本認識をどのように実践に生かしてゆけばよいのか、個人個人がいかに実行してゆくべきかを考えることが残っています。経済学とは相容れないものとして私が訴えてきた考え方の一つに、価値は蓄積したり、固定したりすることができ、限定できるものだ、という理念があります。事実はそうではありません。価値、資本、財といったあらゆる経済上のカテゴリーは常に動き、変化しており、永遠に誕生し、死滅し続けるのです。個人が経済プロセスを実践できるのは、法(例えば貨幣)を通じてのみですから、次のような本質的な問いがたてられます:経済の本質的性格を反映するような権利や法律の体系はどのようなものだろうか?
明らかに、静的な経済状況を作り出そうとするようなあらゆる手だてはなりたちません。既に「貯金」という概念が余計なものであるということにふれました。もうひとつの誤った関係性は、労働を限定された取り替え可能な商品として購入することです。労働は既にみたとおり、経済の領域のものではありません。賃金を支払って労働を購入する、という考え方がありますが、実際には「賃金」は労働の購入とは経済的に全く違う働きを行なっているのです。一方で、賃金によって人は欲求を充たす、言い換えれば財を買うことができます。他方で賃金は、その人が自然を変容させることによって作った価値の成果から生じたものでもあります。あたかも売り物のように雇われているかどうか、ということとは経済的には無関係に、彼の活動が価値を作り出したからこそ賃金を受け取れるのです。経済的に見ると工場では、価値はいわゆる労働者と資本家の協働から生まれます。彼らは共に、労働者の賃金と資本家の利益の源泉となる価値を作り出すのです。一方が賃金を受け取り、他方が利益を受け取るということは、経済の問題ではなく、工場を取り巻く社会的状況の結果なのです。経済的には、労働者は実際に自然に取り組むことによって価値を作りだし、資本家は市場を見つける、または作り出します。どちらも互いを必要としており、同じ重要性を持ちます。次の例でより正確におわかりいただけるでしょう。この工場は二つの事業を行なっているのです。その一つは、労働者のもので、木からテープルを作って資本家に販売しています。もうーつは資本家のもので、家具の販売先を見つけて交換するだけです。その上で、利益については、労働者と資本家の場合双方について論じることができるでしょう。賃金は経済的虚構です。経済学に関する限り、「賃金」はもうーつの余分な概念なのです。
資本の所有
しかし、賃金の非現実性は氷山の一角にすぎません。もっと根本的なことが見落とされています。賃金を払うのは資本を所有する人です。資本の所有によって彼は原料を買うのと同じように労働を買う権利を得ている、と信じています。賃金の虚偽を剥ぎ取ることによって私たちは資本所有の制度に直面します。それは、せまい意味で価値を蓄積することができると考えている点でもうーつの経済上の虚構です。これは全く誤った考え方です。価値を蓄積することはできません。たとえ誰かの銀行口座に記録されていても、価値はそこにはないのです。価値はすぐさま引き出されて別の人のところに向かうのです。銀行の「貯金」はすべて、銀行によって貸し出されているのです。
富の蓄積は現実には権力の賦与です。所有権の限定によって、本来、精神、人間の能力のものである資本は、能力に見合った以上の資本所有を可能にする権力に束縛されてしまうのです(一方、切実に資本を必要としている人の手にはわたらないことになります)。その人の世界における権威は、実際の技量や知識に基づいた自立的なものではない、虚偽のものとなります。彼は正に資本の所有から権威を得ているのです。
資本は生成し、死滅します。作り出され、使い果たされます。貯めることは不可能です。所有を「独占的使用権」と考えるときのみ、この言葉は経済的に意味を持ちます。資本の融資は、相手が経済的に適正にそれを使用する能力を持つ限り正当なものとなります。しかし、その人がふさわしい能力を失ってからも貸し続けるべきではないのです。
私有財産―土地所有―使用権
人間は自然を「買う」ことによって、有限な資本の所有関係に影響を及ぼします。資本を家や土地などに投入して自然を「買い」、私有財産を作り出すのです。ここで私は共産主義者の斧を研ごうとしているわけではありません。単に私有財産は経済的には正しくないものである、ということを指摘したいのです。自然を買うことはできません。買うことができるのは商品だけです。商品(例えば袋入りの石炭)は価値をもっています。自然(埋蔵されている石炭)には価値がありません。別様に考えることができない、といっているのではありません。明らかに現在は別様の考え方がされています。土地を売買したという書類が作られています。広大な火星の不動産をわずかの書類と交換する、ということだって想像できます。が、これはここでの論点ではありません。重要なのは、土地が「購入」されたとき、価値が費消されたのではない、ということなのです。残された価値は、経済プロセスの中に(賃借料という形で)戻ってゆき、そこでインフレの過程を作り出すのです。経済の中で作られた価値は、土地をはじめどんなかたちでも蓄積することはできないのです。価値は、商品の購入あるいは資本の贈与に費消されなければなりません。
かくして、経済プロセスを誤らせる機構が三つ存在します――私有財産―商品としての労働―資本の所有です。有限の世界の中で、人間は精神も自然も所有することはできません。ただそれらを使用することができるだけです。したがつて、所有権というものを使用の権利として扱う必要があります。このためには、権利に対し、特権や不相応の地位を与えないよう特に努カしなければなりません。資本の使用者は、父親や友人が誰であるとにかかわらず、彼自身の資本の使い方によって身を起こし、また、退いていかなければなりません。彼がふさわしい能力の持ち主であれば資本を集めることができるでしょう。
法では、所有権は独占的な使用権を意味しますから、この意味を、現代社会の中で明らかにする方法を見つける必要があります。融資において、資本はより多くの価値を作り出すために使われます。融資は事実上独占的な使用権です。一つの資金を二人の人間に貸し出すことはできません。資本の貸与は経済的現実を反映しているので、経済的な弊害は生じません。
所有するということは、権利の問題です。所有は精神を経済に関わらせ、人の精神をあらわにします。お金の中に、それを使った人の精神が現れているのをみることができます。所有の中に、その人の社会的な成り立ちの本質をみることができます。上述した誤った思考の背後にはピラミッド状の社会階層構造があります。経済プロセスとその資本を通じた解放によって、人間は古代エジプト的な状況を抜け出すことになるのです。資本の進化における課題は、権威や秘儀主義ではなく自己認識と自己改革に基づいて人間から新しい社会秩序を引き出すことなのだ、ということを認識しなければ、資本にふさわしい社会秩序を見出すことはできないでしょう。
マルキシズム(共産主義)
本書の目的は経済学を説明することですが、上の数節は社会学的な意味が大きいので補足が必要でしょう。経済的な不公正を、賃金、資本の所有、私有財産制による、と記述すると、マルキシズムの回想のように受け取られるかもしれないからです。しかし、そうではありません。表面的な相似性は十分ありますが、もっと詳しく見てみればそれは消え去るでしょう。私有財産制が経済的不公正である、というのはその廃止のために政治的戦略を提出する、ということではありません。私は政治的提案をするつもりはありません。私の意見が政治生活に持つ影響についてはまだ調べていません。経済学徒として、私は経済的に不公正なことを指摘すれば十分なのです。私自身の経験からは、適正な社会形態の探求を経済プロセスに導かれて行うと、アジテションや階級闘争という意味での政治を排除するような結果になります。内的に経済プロセスと社会問題の関係を正しく見出していれば、アジや階級闘争という問題は出てきません。
また、資本の所有についての本書での記述を共産主義的であると結論することもできません。私は、人間は資本が有限であるかのような行動をすべきでない、という表現をしないよう気をつけてきました。私はただ、そのような態度は経済的でない、といっているだけです。私の発言で、今行われているような資本の所有をなくそうということはありません。この分野で私に何か実際的な目標があるとすれば(もちろんあるのですが)、それは、人々が資本との新しい関係を見出せるよう勇気づける、ということです。そういったことに関心がない人、心の中にそういった疑問が起こらない人に刃向かっていくのは、あまり意味がないと思います。マルクスがこれを読んだら、私が受動的で、ユートピア的だとして反発したことでしょう。彼にとっては、経済学は即政治的行動につながっていくのです。私が望むのは経済的行動、資本への新しい関係作りだけです。
資本主義
これまでの素描と資本主義はどういう関係にあるでしょうか?本書で描きだしたものが共産主義の形態でないのなら、なぜここで私は資本主義の基本構造をも批判しようとするのでしょうか?私はこれまで経済プロセスを説明するのに、資本主義という言葉を使わないよう苦心してきました。代わりに「資本経済」という言葉を用いようと思います。これは、些末主義ではありません。「資本主義」と「資本経済」は本質的に違います。前者は社会秩序であり、後者は経済の一形態なのです。
資本経済は、資本の解放をもって、ほかの経済形態と区別されます。この形態では、経済プロセスが大なり小なり精神や政治の領域から解放されています。そこに随伴して、個人の解放された意識が存在します。資本経済は、資本が個人の能力のみに基づいてその個人にもたらされるようになったとき初めて、社会秩序の中に正しい位置を占めることができるのです。
資本主義は資本経済ではありません。資本主義はすでにふれた三つの経済的不正に基づいた社会形態です。資本主義のもとでは、資本はその本性から離れた道筋をとらなければなりません。これによって資本主義はまさに社会的不平等をもたらすのです。資本主義の根本部分を犠牲にしなくてはこの不平等をなくすことはできません。資本主義の主な特徴は能力に応じた資本の配分ではなく、資本の所有者への権力の賦与なのです。ですから、資本主義は資本経済とは何の関わりもありません。
なぜ資本主義が人類の歴史に登場したか、ということは別の機会に論じたいと思います。この本が資本主義の弁明ではない、ということが伝われば今は十分です。
(訳:佐藤由美子)
著者:クリストファー・ホートン・バッド
長きに渡り、ルドルフ・シュタイナーの経済学へ与えた示唆の学び手。ロンドンのキャス・ビジネス・スクールにてファイナンスの博士号を取得。ゲーテアヌム経済会議の議長をされています