精神科学自由大学•第一クラスについて(3)−2
アントロポゾフィー協会の構成のうちにおける精神科学自由大学と部門の分節
1924年1月30日
ルドルフ・シュタイナ一
さて、それを読んでみることによっても、さまざまなこと、そもそもにおいて人がすでに知っている、さまざまなことが、ふたたびあぶりだされることになりました。たとえば、このことです。キリスト教を新たなものにするための共同体、知ってのとおり、その共同体は、そのこころざしを、アントロポゾフィーのことがらから得ています 一自立した共同体ではありますが、そのこころざしは、アントロポゾフィーのことがらから得ています一 その共同体が、ついこのあいだ、カッセルで集いをひらきました。そのカッセルでの集いは、まず、こういう独特のことを 一いまという時代の特徴であることを一 知らせてくれます。そこにやって来たのは、はなはだ若い人か、すでに年を経ている人かの、どちらかでした。その報告は、だいたいが二十才にかけての人と、それから三十五才、三十八才から高齢にわたる人であり、そのあいだの年代である二十代、三十代の人が、その集いには欠けていた、と伝えています。それは、すこぶる特徴的なことです。意味深いことながら 一また、目を開いていれば、いたるところで見ることができます一 このかた、世の重要な案件と決定の場という場には、まさに要である人たち、二十才、二十二才から三十八才までの、わけても要である人たちが、欠けるようになりました。ほかの人たちは要にならない、というのではありません。言わんとするところは、こうです。その、わけても要である人たちがいあわせるならば、ほかの人たち、若い人たちも、老いた人たちも、なにごとかをなすことができます。しかし、その、重要な年齢の人たち 一その年齢の重要さは、アントロポゾフィーが伝える多くのことから、しっかりと見てとることができます一 その人たちがいあわせなければ、ことははなはだ難しくなります。
しかし、それにもかかわらず、カッセルでの集いでは、さまざまなことが生じました。その集いは、どこまでもキリスト者共同体によって催されました。そこでは人々が、まず、輪の内に迎えられ、高いまことに向けて、こころを高めました。まさに自由な宗教の立場からキリスト者共同体が説くことごとの内へと、人々が迎えられました。そして、これもキリスト者共同体が説くことですが、礼拝がありました。すなわち、一週間にわたる集いであり、水曜から日曜まで、そして日曜日に礼拝があり、それからさらに二日、ないし三日、討論の日があって、集った人たちが互いに語り合うことができました。その人たちは、いまという時代における人の心の切なる必要から、その日々をとおして、こころを高め、礼拝にいたり、そして、そのことについて問いました。きっと、さらなるものがある。そのものへと、人が、きっと、行き着こう。そこまでのすべては、まさに備えである。きっと、さらなるものがある。そのものヘと、人が、きっと、行き着こう・・・。
そして、そもそも、このことが明らかになりました。人々が求めているのはアントロポゾフィーです。そのカッセルでの若者の集いからも、いくつかのすてきなことが発していくことでしょう。たとえば、キリスト者共同体が宗教を新たなものにすることを考えたように、人が教育を新たなものにすることを考えることでしょう。そこにある力という力をもって、教育を新たなものにすることに向けても仕事がなされるなら、きっと、またなにかが生じることになります。
その集いのことにふれたのは、そこから、このことがはっきりと見てとれるからです。アントロポゾフィーはなんらかの気まぐれからでなく、人のこころが、いまにして求めることから発します。人のこころは、ひとまず情の働きによって備えがなされるなら、必然的に、秘密をただただ漂わせるばかりではなく、開かれた秘密をアントロポゾフィーにおいてとらえることを、まさにこととするようになります。ここに、アントロポゾフィ一協会は、世が求めるもの、あまたの心、あまたのこころが求めるものを、世にもたらすことの妨げてありつづけることが許されません。そして、そのことは、また、クリスマス会議により、アントロポゾフィ一協会が、まるまる公けの協会として立てられたことの基でもあります。
しかし、まずもってなされることのすべては、見通すことのできることです。それは 一きっと、なかば分別において、なかば感覚においてですが一 とにかく、そこにあるだけ、それとして出てくるだけで、見通されます。わたしたちのアントロポゾフィーも、その教育という要素も、とにかく、予断のない人なら、見通すことができます。健康な分別のほかには、なにを用いるにも及びません。ただ、いまという時代にありあわせる予断に縛られなければ、です。こうも言うことができます。アントロポゾフィ一協会は、見通しに基づいていなければなりません。どこまでも見通しに、であり、そのほかのことに、ではありません。アントロポゾフィ一協会に入っても、ただそれだけで、アントロポゾフィーの担い手になれとか、ポジティブな働きをせよと求められることは、もちろんありません。会員のありかたとして、たんにこういうありかたが、まるまる認められます。すなわち、会員のひとりひとりが、ひとつに、アン卜ロポゾフィ一を求め、ふたつに、アントロポゾフィッシュな人です。しかじかのものを広めるということも、じかに求められてはいません。
そもそも、わたしは会員への手紙を会報に書きましたが、そのひとつの章で言ったこともまた、どこまでもまことです。すなわち、通常の意味におけるアジテーションは、アントロポゾフィーのことがらではありえません。アジテーションというアジテーションは、わざわいのもとです。アン卜ロポゾフィーの基に立つなら、アジテーションをする必要はありません。そもそも、必要なのは、人がもともと求めているところを、その人に与えることだけです。人がその人の求めを表てに出すようにと、そのための道を見いだすことだけです。学者のような顔をして、わたしが確信するところは、あなたも、信じるはずであるとか、信じなければ、あなたはバカであるとか、わたしが信じるところを、信じない人は、みなバカである、というように言われたら、人は、その人の求めるところを表てに出しません。人の求めるものとは違ったものを与える権利をもつとか、与える者として、与えられる者の上に立つ権利をもつ、といったような心根とは違った心根を身にそなえることが、すこぶる重要です。わたしたちは、通常の教師のようにふるまうことも、アジテーターのようにふるまうことも、やめる必要があります。ならば、人もまた、このことを、リアルに、まこととすることができます。すなわち見通すということが、アントロポゾフィー協会における生命の根本要素です。
しかし、アントロポゾフィー協会は、また管理されている必要もあります。言い換えれば、教えが管理されなければなりませんし、それには人が必要です。その、教えの管理ということも、まさにクリスマス会議によって、考えられるところとなりました。それを担う人は、選任された理事およびゲーテアーヌムの運営会とのつながりにおいて、クラスに属する人である必要があります。そもそも、アントロポゾフィ一を理解するためには、信頼を要しません。アントロポゾフィ一を管理するためには、おのずからながら、管理局のなかで働く人への全幅の信頼が欠かせません。すなわち、クラスの分節がはじまるところにおいて、信頼の雰囲気がはじまります。そこでは、きっと、信頼の上でこそ、築くことがなされます。アントロポゾフィ一協会ができてよりこのかた、わたしは、くりかえし、こう語ってきました。人がアントロポゾフィ一を受け入れるのは、権威に基づいてでもなく、信頼に基づいてでもなく、見通すということに基づいてです。しかし、人がアントロポゾフィーのことがらを管理することができるのは、信頼に基づいてこそです。その間に矛盾はありません。なにかを引き受ける人、なにかを賄う人、なにかを育む人に対しては、人としての信頼が欠かせません。すなわち、その信頼ということについての問いが、クラスの内においては、厳粛に受け取られなければなりませんし、またもう一面においては、アントロポゾフィ一協会がなんであるかということが、広い心で受け取られなければなりせません。
すでにそこからして、クラスに属そうとする人は、ひとりひとり、みずからに、こう問うことが欠かせません。まえもって、アントロポゾフィーのことがらを、世に向けて、ただ代理、代弁するだけでなく、勇気のかぎり、どのようにしてでも、代表しようとするひとりに、真実、なろうとするかどうか、という問いです。
まさに事実として、エソテーリクを深めること、わたしの本『人はいかにして高い世を知るにいたるか』で読むことができ、また講演で聞くことができるとおりの、深めるということが、これから三つのクラスによって、はじまっていきます。
そのことは、クラスに属する人が、アントロポゾフィーのことがらを、リアルに代表すると感じることなしには、ことたりえません。アントロポゾフィーのことがらを、世に向けて、なんらかのかたちにおいて代表することを、真実、引き受けようとしているのどうかを、みずからに問うということなくしては、ことたりえません。もちろん、ひとりひとりにとって、アントロポゾフィーのことがらを全体として代表することは、できかねますが 一それはまた必要でもありませんし、有益ですらありません一 どれかひとつの分野において代表することは、できます。そのときには、そのひとりひとりが、アントロポゾフィーに必要な信頼というのではありません、きっと、アントロポゾフィーのことがらの管理に必要な信頼を基にして立つ人であるはずです。そこでは、ことにこのこと 一それについても、わたしは会員への手紙の第三章のなかでふれています。その手紙は会報の今週号に載ります一 すなわち、アントロポゾフィ一協会のうちに、これまでのことから、たびたび生じていたことが、きっと、生じなくなります。わたしは、そのことを、会員への手紙の第三章において「エソテーリクごっこ」と呼びました。そのことは、大きな広がりをもつ、エソテリックごっこというようにとらえられます。エソテーリクは、実に、みずからのこころに向けても、また人に向けても、わたしたちの時代に向けても、はなはだ厳粛なことがらです。べつに、厳粛さを生みだすべく、がっかりしたような顔をして、できるだけセンチメンタルに、重々しくふるまいましょう、というわけではありません。内なる厳粛さ、まったく上質のユーモアとひとつでさえありうる厳粛さが、きっと、ありあわせるはずです。たとえばですが、しかじかを知ってはいるが、それをあなたに言うことはできない、あなたがまだそこまで成熟してはいないからである、といった態度がはばをきかせることは許されません。人は、そのような態度をとることによって、おかしな情をかもしだします。なによりも、自分で自分をもちあげておきながら、そのことに気づかないでいます。
たしかに、狭いサークルのなかで育まれなければならないものごとがあります。しかし、そのものごとは、いま言ったように扱われてはなりません。もう一面において、エソテリッシュなものごとは、お喋りの対象ではありません。それが、おうおうにして、喋りちらされるだけになっています。こうしたことは、言わく言いがたいことです。つまり、生きる姿勢に基づくことだからです。しかし、言わんとするところは、おりにふれて分かっていただけると思います。これこれは秘儀の秘密であるとか、しかじかの受肉があるとか、ただお喋りをするだけのために、エソテリッシュなものごとがあるのではありません。そのものごとは、考えうるかぎり大いなる厳粛さをもって扱われなければなりません。しかるべく分かるということをもって扱われなければなりません。
こういうことも、ちょくちょく耳にします。あの人たちは、あんなことをしている。しかし、あれではエソテリッシュな意味でなにもなすことができない。わたしたちだけでエソテーリクをしよう、わたしたちこそ、ふさわしい人たちである・・・。それはそれだけですでにアントロポゾフィ一協会の甚だしい妨げとなります。ひとつに、それは、おおむね、仮面をかぶった党派の満足、党派欲を満たすことにほかなりませんし、ふたつに、人は、そういうことを口にするとき、どれほど多くのエソテリッシュなものが、生きる分野のいちいちに生命を送っているかを、予感していません。生命は、まったくもってエソテリッシュです。はたして、大学のひとつの研究室のうちにも、なんと多くのエソテーリクが生きていることでしょうか。ただ、教授も助手も、それついてなにも知らないだけのことです。それでも、エソテーリクはそこに生きています。エソテーリクは、人が、なにかを見下して、気に入いったことを育むことではありません。人が、生命と、その深みに、エネルギッシュに取り組むことができることです。
訳:鈴木一博