精神科学自由大学•第一クラスについて(2)
会報1924年1月20日、1月27日
ルドルフ・シュタイナー
[会報1924年1月20日]
アントロポゾフィー協会は、クリスマス会議の意図が実施されるにおいて、将来、会員のかたがたのエソテリックな希求を、可能性に応じて満たす必要があります。その希求を満たすべく、普逼協会のうちに三つのクラスを設けます。
精神認識ということの本質として、その認識は、まずもって、しかるべく生きられたこととともにさしだされます。それは、精神において見ることへの道を知っている人によって見いだされます。
それを認めることができるのは、それをみずからで見いだせる人のみである、というように思うとすれば、それは予断にほかなりません。その予断は、さらにまた、そのように認める人は盲目的な権威信仰に身をまかせる人である、という予断を呼びだします。その予断が押し立てられるところから、アントロポゾフィー協会のような協会が非難されます。そういう協会の会員は、指導的な人間を無批判に信奉する者である、というようにです。
しかし、かならずしも画家ではなくても、絵画の美を感覚するとおり、かならずしも精神を研究する者ではなくても、精神を研究する者が語ることの多くを理解します。精神を研究する者は、みずからのうちにある力によって、精神のものが生きる世、精神のことが生じる世に迫ります。その者は、精神のものとことを観ます。そして、物質の世のものとことが精神から生じてくることのいかなるかをも観ます。
精神を研究する者は、さらに、観たことごとのしかるべきところを理念へと仕立てる課題をもちます。その理念は、特別な力に懸かるのではなく、普通の意識に届きます。その理念は、それをこころに生かそうとするどの人にとっても、それそのもののうちに根拠を有しています。その理念は、ただの考えの力からは仕立てられません。その理念がつくりあげられるのは、精神において観られることが理念へと鋳なおされるにおいてこそです。しかし、その理念は、精神を研究する者によって、ひとたびあらしめられたなら、どの人も取り込むことができますし、また、その理念そのものから、その根拠を見いだすことができます。だれひとり、それを盲目的な信仰をもとに取り込むには及びません。しかし、精神を研究する者が理念という形でさしだすことは、そのことだけでは理解しがたい、というように多くの人が信じているのは、その人たちが理解への道をみずからで塞いでいるからに他なりません。その人たちは、感官をもって観ることに支えられることのみを証明されたことと見なす、ということを習いとしており、理念と理念が互いに証しあいつつでありうる、ということへの感覚をもちあわせてはいません。その人たちは、重さをもったものすべてが大地に支えられているのを知っており、そこからさらに、地球そのものが宇宙空間に支えられているはずだ、というように信じる人と同じです。
しかしまた、観ることの成果をまえもって理念のかたちで得ることなく、精神において観ることへと行きつく人も、きっと、おります。つまり、運命によって、そのように、あらかじめ定めされているところからです。ほかのすべての人にとっては、精神の世の、理念のかたちへと移すことのできる領域、その理念の内容を理解することが、観ることへとみずからで行きつくための、欠かせない前提です。
ここにもまたひとつ、予断が出てきます。まず理念のかたちで、精神の世の面影を受けとるとすれば、そこから精神の世を観るということについて自己暗示におちいる、というように信じる人がおります。まずは話に聞いていただけの人に、やがてまみえるにおいても、自己暗示ということは、ほとんど云々しようがありません。まずは理念のかたちで理解した精神の世が、やがてリアルな質という質をもって響きくるのを聴きとるにおいても、同じです。
そこから、普遍的には、きっと、こうなります。すなわち、人は、精神の世を、まず理念のかたちで知ります。そのようにして、精神科学は、普遍アントロポゾフィ一協会において育まれます。
しかし、精神の世を表すことにかかわろうとする人、理念のかたちから、精神の世そのものに沿った表現法へと上昇する人がおります。また、精神の世への道を知り、その道をみずからのこころをもって歩もうとする人も出てくるでしょう。
そうした人にむけて、「大学」の三つのクラスが、これから設けられていきます。そこにおける仕事は、エソテリックの度合いを、だんだんに高めていきます。「大学」は、参加者を、高く、精神の世の、理念のかたちによっては開くことのできない領域へと導きます。そこにおいては、イマジネーション、インスピレーション、イントゥイションのための表現法を見いだす必要が出てきます。
そこにおいては、また芸術、教育、倫理といった領域も、エソテリックから明らかな光と創造への意欲とを受けとることのできる領域へと導かれます。
「大学」の構成と部門の分節については、次の号で述べることにいたします。
[会報1924年1月27日]
わたしたちは、ゲーテアーヌムの支部の施設を、こころがアントロポゾフィーを求める場という場に設けることはできません。そもそも、わたしたちは、ひとつの貧しい協会です。
ゲーテアーヌムの仕事に、遠方のかたがたにかかわってもらうには、ゲーテアーヌムで生じていることを文書による交流のなかで伝えていくしかありません。交流をどのようにしていくかについては、これから話し合わなければなりません。その交流によって、ゲーテアーヌムでのクラスには、しかじかのあいだをゲーテアーヌムで過ごすことのできる人も加わることができるでしょう。交流はさらにまた訪問によってもなされるでしょう。どこにであれ、可能であるかぎりは、ゲーテアーヌムにおける活動の運営にあたる者、あるいは、さまざまな場においてゲーテアーヌムと密接な連携をとる者が、訪ねていくことでしょう。
しかし、そのことは、「自由大学」がエソテーリックな生命ともども発展していくかぎり、きっと、真率なアントロポゾフィーの精神からまとめられていくはずです。
ゲーテアーヌムの運営会は、現代の精神の動きをよそにして殻に閉じこもろうとするのでは決してなく、現代の精神の動きのうちに現れる、人間の真の成長につながるものすべてを、全幅の関心をもって見てとるべく努める必要があります。
そこから、運営は、個々の人が個々の部門の運営を引き受けるかたちでなされます。部門は、現在可能な部門であり、ますます活発になるであろう仕事のなかで充実していくことが期待されます。
中心点になるのが、普遍アントロポゾフィ一部門です。当座は、教育部門もそこに属します。その部門の運営には、わたし自身があたります。医学部門は、アントロポゾフィーが医術・療法を稔り豊かにすることに向けて営まれます。その運営は、イタ・ヴェークマン博士が担います。医術・療法は、そのむかしから、人間認識の中心課題と密接で精神的なかかわりにあります。アントロポゾフィーは、そのかかわりをふたたび打ち立てることをとおして、みずからの生命の力をありありと示していくことでしょう。イタ・ヴェークマン博士の医療治癒研究所は、その努力と実践的な効力の、ひとつのモデル施設です。
芸術の活動は、きっと、アントロポゾフィーのこころを、わけてもときめかせるものです。わたしたちは、このかた、オイリュトミーを育んできましたし、朗詠・朗誦の芸術において新しく芽吹きはじめた芸術の活動をもちあわせます。音楽は、それと密接なつながりをもちます。その活動を育むことが、それとして独自の部門でなされます。マリー・シュタイナー氏は、身を尽くして、みずからの働きをその活動と結びあわせました。氏は、アントロポゾフィ一協会の歴史そのものによって、その部門の運営を任されました。
造形芸術は、ゲーテアーヌム建築の光のもとにありました。その基盤のうえでなされてきた中心的な仕事をもとに、ひとつのスタイルが生みだされました。それは、今日、まだ、自ずからながら、多くの敵を見いだします。それは、自ずから明らかなとおり、欲するところを僅かにしか表すことができません。しかし、それは、アントロポゾフィーが広く、親しく知られていくにつれ、さらによく理解されることでしょう。E.マルヨン氏が、そのスタイルの構築に手をかしました。そのゆえに、氏は、この部門の運営するに適任の人です。
かつてには「文芸」という考え方がありました。それは本来的な学問と人間的で創造的なファンタジーの作品とのあいだに橋を渡しました。近代の学問による見解が、「文芸」をすっかり背後へと押しやりました。わたしはちかぢか『ゲーテアーヌム』誌で「文芸」について述べるつもりです。アントロポゾフィ一協会には、幸いなことに「文芸」のすばらしい代表者がおります。アルベルト・シュテフェン氏です。氏は「文芸」部門の運営に適任であるのはもとより、その、文明にとって不幸なことなことながら、片隅へと押しやられた、人間的な創造の一分野を、ふたたび生かすにも適任の人です。
さらにまた、ここでともに働く人たちがいることにより、数学、天文学の部門と自然科学の部門を設けることができます。前者の運営には、L.フレーデ博士があたり、後者の運営には、ギュンター・ヴァックスムート博士があたります。天文学の領域は、アントロポゾフィーにとって、ことに重要であり、また、自然科学の部門をとおしては、真正な自然認識がアントロポゾフィーとかちあうのはでなく、まるまるひとつに折り合うことが明らかにされていくことでしょう。ギュンター・ヴァックスムート氏は、ちかぢか著作を公にします。それが氏の適任であることを伝えます。
(訳鈴木一博)